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Making

​映画「ワンカラット」の舞台裏

監督の撮影日誌より抜粋

     プリ・プロダクション     

●イントロダクション

 

 94年の5月、加戸谷は「1カラット」というタイトルのシナリオを書き上げました。
 主人公は法学部の学生サトル。映画好きで古い8ミリキャメラを愛用している青年です。物語は心臓病で亡くなった兄キミオの葬式から始まり、サトルが最後にキミオに会ったときの回想へと進んでいきます。キミオは田舎の大学に通う虫好きの青年で、その日もサトルを連れて山へ行くのでした。サトルは、キミオの行動を8ミリに収録していきます。

 そこで2人はコガネムシを発見しました。コガネムシはアフリカではスカラベと呼ばれ、フンの中から自生することから復活のシンボルとされているといいます。

 やがてキミオはスカラベを求めアフリカへ旅立ち、そこで命を落とすことになります。

 

 加戸谷はこの話を新聞の記事からヒントを得ました。記事は塚本 珪一先生という虫好きの大学教授の事を記したもので、アフリカのスカラベについて書かれていたものです。

 小さな新聞記事から物語を膨らませ1時間ほどで一気に書き上げ、ほとんど加筆修正せずに完成したシナリオでした。

 

 加戸谷からシナリオを受け取ったみかわは、完成度の高さに惚れ込み映画化を進めることにしました。大規模なセットや特殊効果は必要のない作品なので自分達でも製作可能だと判断したのですが、それでも映画製作は大変なものです。

​ こんな小品であっても完成させるには多くの人の力と尋常ならざる努力が必要となったのは言うまでもありません。

●製作開始

 

 「1カラット」は夏の物語でしたが、この年(94年)の夏は加戸谷が監督を努めた「Joy Ride」の撮影がありましたので、「1カラット」の製作は95年の夏に決めました。この時点では、主役のキミオとサトルを、それぞれ橋本太志と加戸谷隆斗が演じ、監督をみかわが担当するということくらいしか決まっていませんでした。
 計画では、95年1月から準備に入り、7月から撮影して9月から編集、10月には完成という予定でしたが、年が明けても、すぐには始めることができませんでした。いつものことですが。

 シナリオを映像化するにあたっての具体的な課題は、キミオの葬式のシーンとインドの映像だと感じました。葬式のセットを組める場所がないことと、セット自体をどうするか皆目検討がつきません。そしてラストのインドの映像はどのようにするのか。インドロケでいくか? それとも日本でインドを再現するのか? シナリオの最初に受け取った時は無謀にもそう考えていましたが、実際には予算的に不可能です。ではどうするのか? まったく見当がつきません。

 この当時、「1カラット」は95年中に完成させたいと考えていました。なぜなら95年は映画誕生百年だったからです。「1カラット」はスカラベの8ミリ映像で終わります。映像そのものが主役になる場面で、映画百年にふさわしい作品になると思われました。

 しかし結局実際に製作に入ったのは95年6月からです。予定通りにいかないことも想定内といえるでしょう。

●脚本の調査

 

 まず最初にシナリオを読み込む事から始めました。オリジナル・シナリオがもともとよく出来ていたので、修正する部分はほとんど無く、変更点はタイトルの表記を「1カラット」から「ワンカラット」にしたことと、インドをアフリカにしたことぐらいです。

 作品のテーマは何かを考えてみました。シナリオを読んですぐに気付いたのは「死と復活」が物語の柱となっていることでが、キミオとサトルの穏やかなやり取りが要になると感じました。しかしその部分は演出だけで作れるものではありません。役者の力量で大きく変わってしまうところでもあるので、演出プランとして役者の方向性を読み伺うことを年頭におきました。

 もともと映画は個人の思いだけで作れるものではありません。映画はひとりでは作れないのです。数人から数十人の人が集まり共同作業の中から作品を具体化していくのが映画製作というものなのです。ですから演技は役者のものであり、役者の中から生まれないものを求める事はそもそも不可能なのです。当たり前のことですが、演出方針として、役者の演技の中から演出プランを抽出することに決めました。

 物語の舞台が地方の田舎の設定なので、地方ロケが最良ですが、電車、駅関係以外では地元横浜で撮影出来そうでした。そんな中で一番規模が大きく製作費も掛かりそうなのが葬式のシーンになりそうだったので、まずは仏檀を貸してくれそうな業者を探しました。唯一、仏檀のレンタルを扱っている日本コンサート・ビューローという会社を見付けて連絡しましたが、借りる予定の日に実際にお葬式があった場合、そちらを優先させるので、物がないということも有り得るということでした。さすがに仏檀をまるごと借りるのは製作費が掛かり過ぎるので、土台は出来合いのもので制作し、うわものだけを借りる作戦に変更して、以前「気になる電話」で赤電話を借りた日本芸能美術に相談してみました。日芸の対応はとてもよく、必要なものを絵に画いてFAXしてくれれば、予算に応じて必要なものを製作してくれるというものでした。なので撮影日が決まり次第また連絡することにしました。

●第1回日立ロケ

 

 ロケハンの準備として最初に行なったのは、田圃の中を電車が走るというシーンがあり、話の中に山が登場するということを踏まえて、条件に合いそうな場所を地図の中から探すということでした。車で移動することを考えて、常磐道で山のあるところまで北上することにして、電車は筑波山近くのJR水戸線に絞って探しました。

 1995年7月1日、妻と一緒に最初のロケハンに出発しました。水戸線の駅を一つずつしらみつぶしに調べ、駅のシーンは稲田駅が第1候補で、第2候補は大和駅となり、それぞれ8ミリビデオに映像を収録しました。他の駅はとても撮影には使えそうもないので、その二つの駅から選ぶことになりそうです。電車の走る遠景ショットは、羽黒駅近くの田園が候補で、線路の回りにかなり広く田圃が続き、とても良いロケーションでした。駅はともかく遠景ショットはここで撮影することになりそうです。場所は決まりましたが、実際の撮影をどうするかが課題です。駅、電車の中、電車の遠景を1日で撮るのは不可能に近く、泊まりがけで撮影することが必要です。

 ロケハンの帰りに友人の橋本祐一郎氏の家に立ち寄りました。以前彼の結婚式を撮影したことがあり、それを編集したものを渡そうと思ったのです。橋本の家でロケハンの話をすると、彼は日立電鉄が条件に合うのではないかと提案してきました。しかし日立電鉄は水戸線から1時間以上北上しなければならず、それでなくても遠方で時間もかかる複数のシーンを撮らなければならないので、内心無理だと判断していました。ところが、日立駅の近くに橋本の父親が所有しているマンションがあり、普段は使わないので泊まるなら使っていいと言うのです。そこで可能性が飛躍し、映画の多くのシーンを日立で撮影することに決めました。うんこ山のシーンはかみね公園が使えそうで、電車、駅は日立電鉄、そこが使えなくても水戸線まで南下すればよいのです。そんなわけでアッと言う間に話が決まり、7月下旬から8月上旬に日立でのロケを5日間にわたり行うことに決定しました。

●第2回日立ロケ

 ロケハンからの帰宅後、ニフティサーブの映画フォーラムを利用し、「日立市在住の方へ」と呼びかけました。こちらからすべてのスタッフを集めてロケをするのは不可能だと思い、地元で調達しようと考えたのです。呼びかけにすぐに連絡がありました。日立南太田の近くに住む小薗さんという方で、映画フォーラムの管理者の一人です。早速協力をお願いしました。
 撮影場所と宿泊場所が決まったので、ロケに参加する人物を決める段階に入りました。監督である私以外には、出演の加戸谷と橋本太志は確実に必要です。そして作品のまとめ役である製作の大川雅之、そしてスタッフの宮崎貴正と愛川真由の計6名で行うことにして、7月28日から5日間で計画を立てて準備を進めました。

 更に詳細な準備が必要なので、再度ロケハンをすることに決め、7月15日の早朝、家族で日立へ向かい、10時頃には協力者の小薗さんの家へ到着しました。小薗さんとは初対面でしたがとても良い方で、本当に映画好きでした。お昼を御馳走になった上、日立周辺を案内してもらい、うんこ山のシーンはかみね公園よりも、小木津山公園の方がいいだろうと提案してくれたので、それを念頭に入れ、小薗さんには直前に出来たシナリオの決定稿と資料を渡しました。
 小薗さんと別れた後、ロケハンを続けました。日立電鉄を見ましたが、JR水戸線の方がイメージに近く、改めてひと駅ごとに見て回りました。駅はJR水戸線の稲田駅を超えるものがなく諦めかけました。そんな中、JR水郡線の車両は新型車両が多くて電車自体は使えませんが、駅はどれも味わい深く使えそうだったので、どんどん内陸へ進みました。そして玉川村駅に出会うことができたのです。

 JR水郡線玉川村駅は日立から車で1時間はかかるところにあります。駅に到着して一目見て気に入りました。単純に絵になる構えをしているのです。

 8ミリビデオと写真を数枚撮り、帰ろうとしたところ、駅で働いている地元の人に「横浜からですか?」話しかけられました。車のナンバープレートを見て聞いたのでしょう。これを逃してはなるまいと思い、すかさず名刺を差し出し、駅を撮影に使わせてもらえないかとお願いしました。するとその方が渡した名刺にある住所を知っているというのです。なんと息子さんがうちの近所に住んでいて来たこともあるというのです。お陰で交渉は円滑に進み、撮影はOKとなりました。おじいちゃんという印象の青砥さんは、無人駅の管理をしているそうです。この玉川村駅は8月頃取り壊されて新築されるというので、早く撮影しなければなりません。青砥さんと記念撮影をして、日も暮れかけていたので駅を出ることにしました。

 ロケハンから戻り、7月28日に向けて準備を進めていたところ、キミオ役の橋本のスケジュール調整ができず、28日を諦めて8月6日からロケをスタートすることに決めました。

●コガネムシ

 この映画には虫が登場します。それも近所で捕まえられるようなものではなく特別な虫です。日本にいるコガネムシ科の昆虫は300種類になりますが、その中で映画に使えそうな美しいものは、緑色に輝くミドリセンチコガネと青色に輝くルリセンチコガネです。そこで加戸谷がみつけた新聞記事に掲載されていたという塚本先生という方に連絡をとってみました。分かったことは私達が求めている2種類のコガネムシは紀伊半島にしか生息しないということです。改めて図書館で塚本先生が執筆した「日本糞虫記」という本を借りて来て調べてみると、生息地分布図が記されていました。琵琶湖の南側にミドリセンチコガネ。奈良公園を含む紀伊半島南部にルリセンチコガネという分布です。これは奈良に行くしかないと判断し、日立ロケの後に行くことにしました。

●キャスティング

 

 この作品は主人公サトルと兄キミオが物語の中心になりますが、他にもキャストが必要です。特に日立ロケで出演する俳優は事前に決めておかなくてはななりません。サトルが大学へ向かう途中で出会うクワを持った青年は助監督の宮崎で決めました。彼は月夜戯人館の館長でもあり演技経験もあり、こんな小さな役にしてしまうのはもったいないくらいです。うんこ山の帰りに出会う喪服の男二人は、小薗さんと小薗さんの友人にお願いし、もし友人がだめな場合を考えて大川に準備をしてもらいました。問題は農夫です。最初、愛川の知り合いで映画製作経験のある友人に頼むつもりでいましたが、持病がひどくなり動けないということがわかり、悩んだあげく、宿泊場所を提供してくれる橋本祐一郎に頼むことにしました。演技経験はありませんが、持ち前の要領の良さがあるのでこなせるとみたのです。これで日立ロケの準備が揃いました

     プロダクション     

日立ロケその1

 

 1995年8月6日、クランクイン。

 ロケ車の通称あづき号に私の他、加戸谷、橋本、大川、宮崎、愛川の6人が乗り込んで早朝日立に向けて出発しました。役割は加戸谷がサトル役。橋本がキミオ役。愛川が製作進行。宮崎が撮影、助監督、照明。大川が録音。そして私が監督です。途中、宿泊場所を提供してくれた橋本祐一郎と合流し、昼前には日立に到着しました。

 この日は皆には休んでもらって、わたしと宮崎でS♯2の走る電車のショットを撮影しに水戸線沿線の羽黒まで向かいました。95年の夏は前年に匹敵するほど暑かったのですが、空の具合はあまり良くありませんでした。青空は無く、どちらかと言えば曇りに近いのです。そんな条件の中、稲穂なめの電車の映像を大量に撮影しました。電車は30分に一度くらいしか通らないので、実際の撮影よりも待ち時間の方が長く、曇り空のためなのか、午後4時くらいには撮影条件は最悪の状況になりました。午後からの撮影だったので時間が過ぎるのも早く、初日だというのに納得のいく映像が収録できませんでした。

 7時に橋本祐一郎の奥さんの則子さんも加わり最初の夜食となりました。食事は愛川が用意してくれましたが、奇麗に盛り付けられて、とても美味しく疲れを一掃するものでした。
 その夜、撮影に於ける最初の大きな決断をしました。本日の撮影で思ったほどのショットを確保できなかったため、9日に電車内部の撮影を行う予定でしたが、撮影隊を2班に分けることにして、第1班を電車内部で、第2班を電車外景を撮ることにしました。

日立ロケその2

 8月7日、役者にとってのクランクインです。午前中は金砂郷町の日立・笠間線沿いの竹越付近の畦道でS♯4・10を撮ることにしました。午前5時に起床し、食事の後、7時過ぎに目的地へ出発し、9時には撮影準備を始めました。しかし天気が芳しくありません。雨が降るわけでもありませんが、曇っていて夏の雰囲気がでないのです。とりあえずサトルが畦道を歩き大学へ向かうという簡単なカットを撮影しましたが、昨日の失敗も加え、これでは初日から妥協の連続になってしまうと感じました。難しい演技を要求する場面ではないのに不満足なファーストショットを撮ることに憤りを感じました。そこで固形燃料をキャメラの前で燃焼させ、陽炎を作ることにしました。撮影中、この映画は失敗するかもしれないという不安がつきまといました。

 10時30頃、小薗さんが娘のマリコちゃんを連れて来られました。小薗さんには今晩喪服の男の役で活躍してもらうことになっています。キャメラ位置を変え、同じ演技を撮影した後、やっと日が射してきました。朝早くから準備をして来たのに、実際に撮影開始可能な時間は10時過ぎということのようです。とはいえ、スケジュールに追われつつ撮影しているので、10時まで待っていられないのが現状です。同じ場所でS♯10の畦道のサトルとキミオの歩きを撮影した後、場所を少し変え、S♯4のサトルの歩きとインサート用のショットを撮影して、昼食にすることにしました。

 小薗さんの案内で中華屋に移動し、人数が多いので座敷で食事をしました。小薗さんがそこにあったテレビに自分のビデオキャメラをつないで、S♯8に登場する井戸のロケハン映像を見せてくれました。それがとても良てて、撮影に十分使えそうでした。キャメラアングルもすぐに想像することができ、小薗さんに感謝しながら食事を終えました。
 S♯10の農夫が登場する場所へ移動したところで、小薗さんが一旦家へ帰りました。小薗さんは玉川村駅で喪服の男を演じることになっていたので、5時過ぎに駅で会う約束をしました。

 午後2時くらいが一番撮影に適している時間のようです。天気も良いし、ロケーションも理想的です。期待をしながらS♯10の農夫が登場する場面の撮影に入りました。今日の撮影で一番難しいシーンです。ここで農夫を演じる祐一郎は、以前「気になる電話」で少し出演してもらったこともありましたが、演技は未経験に近く、作品の方向性を決める最初のショットだけに、さぐりを入れつつ撮影を始めました。サトルとキミオの会話シーンはリハーサルを重ねて数テイク撮影しました。どこでOKを出すのかということも監督の仕事のウェイトを占めています。実際のことろ二人の演技に不満はないし、アングルや画角にも問題はありませんが、何かしっくりと行きません。理由はたぶん自分の中にあるのだと思われます。何本か作品を撮ってきたことを思い返してみると分かりますが、以前にもこういうことはよくありました。理想と現実のギャップというべきか、つまりはこの作品のことをこの時はまだ分かっていなかったのだと思います。

 次に祐一郎演じる農夫とキミオの会話シーンに入りました。祐一郎は不慣れながらよく指示を聞いてくれて、自分でも演技プランを出してくれました。時間はかかりましたが、どうにかOKカットを撮ることができました。編集では数テイクある演技の中から抜粋して使うことになりそうです。

 S♯10で手間取り、時間が午後4時を過ぎました。4時を過ぎると急激に日が傾いて撮影には不適当となります。予定では日差しがある時間に玉川村駅でS♯3の撮影をする予定だったので、急いで駅へ向かいました。ロケハンの時に会った青砥さんは午後3時頃まで我々を待っていてくれたようですが、来ないので帰ったとのことです。青砥さんが居ないのは残念でしたが、直ぐに撮影を開始しました。しかし日はかなり傾き、明らかに夕方の映像です。結局何度もテイクを重ねましたが、妥協点は見つからず、諦めのOKを出しました。

 午後5時半頃、小薗さんが友達の吉田さんを連れて来られました。二人には喪服に着替えてもらい、提灯を持って駅の前に立ってもらいました。駅から出て来るエキストラに祐一郎の奥さんの則子さんにも協力していただき、暗くなるのを待ってS♯17を撮影しました。駅前の物々しい撮影に自治会の会長さんなどが見学に来て、テレビで見るような映画の撮影風景になりました。

 我々の使っているキャメラは、最近のキャメラと比べるととても暗く、夜間撮影は不得意なのです。勿論それを承知で撮影しているので、早く終わらせようとしましたが、場所が駅だけに電車が来たり、迎えの車が来たり、どこかへ向かう乗客が来たりで、NGが続出しました。結局終わったのは午後8時頃となりました。撮影の終わり頃青砥さんが来てくれたので、皆で記念撮影をして本日は終了となりました。小薗さんを夕食に誘いましたが、時間が遅いのでまた次の機会ということになり、祐一郎は仕事があるので、ここから直接横浜へ帰ることになりました。
 玉川村駅から1時間かけて日立へ戻り、みんなは早く寝ましたが、わたしは一人で翌日のプランを練りました。今日の撮影は予定のショットを消化することはできましたが、手ごたえはあまりなく、なんとも後味の悪い撮影となりました。

●日立ロケその3

 

 8月8日、今日は本編の中でもかなり重要なS♯12から15のうんこ山の撮影で、サトルとキミオが山でコガネムシを探しだす場面です。6時起床で食事の後、8時に小木津山公園へ向いました。一応歩く覚悟で、機材を最小限にとどめてはいましたが、小木津山公園はその名の通り山だったのです。公園の駐車場から公園の内部へはかなりの距離があり、公園の中心は池があったり、キャンプ場があったりして、人工林ではありますが、見た目には自然林のような作りなのです。敷地もかなり広く、撮影場所を決定するのに手間取りそうでした。

 簡単なロケハンをして候補を見付けた後、撮影に入りました。S♯12はサトルとキミオがひたすら歩き、フンを探す場面です。数テイク撮影し、日立ロケ始まって以来の手ごたえを感じました。2人の演技にサトルとキミオが存在するのを見たのです。とても良いく理想的でした。この勢いでS♯13へ向かいました。小さな滝を背景にキミオがタヌキのフンをほじり、それを見ているサトルという場面です。このショットも理想的で演技も良く、作品の成功が見えてきました。

 S#13のリハーサルが佳境に入ってきた時、一台の白いバンが我々の近くまで走って来ました。ここまで車で来れるものなのかと思って眺めていると、ネクタイをした二人の男が降りて来て、撮影許可はあるかと聞いてきました。公園内は日立市役所の公園課で管理していて、撮影には許可が必要だというのです。勿論許可はありません。そこで許可を下さいと言うと許可が下りるまでに1週間はかかると言うのです。それでは撮影が無理なので、何とか出来ないかと交渉しましたが、役所の二人は即刻撮影を中止しろと言ってきました。公園の案内に撮影に許可が必要だとは記されていなかったと主張しましたが、聞き入れる様子はなく、押し問答のあげく、二人は強く撮影中止を命じて山を降りていきました。

 小木津山での撮影はあっけなく中止となったのです。

 今思えば、言うことを言って下山した役所の人もその後のことについては許していたのかもしれませんし、適当に役人をあしらって後で要領よく撮影を続ければ良かったのかもしれません。映画作りには有りがちな出来事ですが、自分たちも世の中のことを知らないただの映画小僧でしかなかったのでしょう。この時は日立に来て初めて理想的に撮影が進んでいたこともあり、役人の茶々に本当に頭にきていたのです。撮影を再開するには皆の気分が落ち込んでいて、山から降りる時は誰も一言も喋ることなく黙々と歩いていました。時間的に日立でうんこ山のシーンの撮影をすることは不可能となりました。当初の計画ではうんこ山の撮影はは横浜近辺で可能と考えていたので、残念ですが、この重要な場面の撮影は横浜に帰ってからにすることにしました。

 午後には日立に戻り、ビールを飲みつつ作戦を練り直しました。今日撮影出来る部分がないので、昨日撮影したS♯3の駅を撮り直すことにして、日立駅へ向かうことにしました。午後1時にCM等で活躍している秋本翼さんと待ち合わせをしていたので、秋本さんを捕まえた後、玉川村駅へ向かいました。午後2時過ぎに駅に到着し、直ぐに撮影準備をしました。ところが空には雲が多く、条件は昨日とさほど変わりはありません。ここまで来て何もしないわけにはいかないので、撮影を始めることにしました。せっかく秋本さんが来ているので、彼女にエキストラを頼み、多少天気に不満を感じてはいましたが、何とか終了することができました。

 この日は小薗家の夕食に呼ばれていたので、メンバー全員でお邪魔しました。今日は不本意な事が続いたせいで、気落ちしていましたが、小薗さんとの映画の話は盛り上がり、午後11時過ぎまでゲームなどをして楽しみました。

 日立へ戻ると皆は疲れていたらしく早く寝ましたが、明日の撮影は2班に分けて行うことになっていたので、わたしと宮崎は撮影プランの打ち合わせをしました。電車の遠景ショットを撮影することになっていた宮崎には演出イメージを詳細に伝え、電車内組は、電車のキップをどう購入するかで検討しました。青春18切符を買えば一人2千円ちょっとで一日中乗車することが出来ます。ただし切符は5枚1組で代金は1万円を超えます。このロケに来てからずっと思っていたことですがが、映画製作では、正しいと思われる決断がとんでもないことにつながるということがしばしば起こります。

 こういう決定をする時、それが“戦争”の論理に良く似ている気がしました。今の最良の決断が本当に正しいのかは誰にも分からないのです。時には素晴らしい作品を作っているという気になったり、駄作を作っているのかもしれないという不安に襲われたりするのがシーソーのように繰り返し繰り返しやって来るのです。映画作りとはそういうものだと気付きましたが、思えば人生そのものが決断の賜物だったりします。

​ しかし、この時の自分はそんな視野にも立てないくらい狭い世界しか見ていませんでした。

●日立ロケその4

 

 8月9日、朝7時に宮崎と大川は車で水戸線羽黒駅へ向かいました。二人を見送った後、9時過ぎにわたしと加戸谷と橋本の三人は日立駅から常磐線で水戸へ向かいました。水戸、友部で乗り換え景色のいいところを探しつつ撮影を開始し、車内で撮影をするためにキャメラはハンディ・タイプのものを使用し、音声はあらかじめアフレコのつもりで行いました。水戸線のスピードは思ったより速く、揺れが激しいため、撮影は困難でしたが、順調にテイクを重ね、俳優の出る場面は終了しました。途中、羽黒駅で降り、宮崎組の撮影の様子を見に行きました。電車遠景ショットは幾つか撮影出来ましたが、通称“ひまわり”カットが手間取っているようです。暑さのため、用意したひまわりが次から次へとだめになっていくというのです。宮崎を激励し、加戸谷と橋本をそこへ残して、わたし一人で車内から外を見た映像を幾つか撮影して本日は終了としました。

 撮影環境が悪かったわりには、予定通りのショットを押さえる事が出来ました。
 明日も撮影は残っていますが、今晩は日立ロケの最後の夜なので、一応打ち上げめいたことを企画していました。しかし疲れがたまっていたのでしょう。殆どのメンバーは早い時間に就寝することとなりました。

●日立ロケその5

 

 8月10日、朝8時に日立駅のターミナルで小薗さんと待ち合わせをしていましたが、マンションの前で会うことが出来ました。小薗さんの案内で、日立から50分くらい車を走らせたところに先日映像で見た井戸の場所がありました。
 天気はとても良く、今回のロケの中で唯一演出プランがしっかりしていないシーンの撮影だったので不安もありましたが、思ったよりもスムーズに準備が進み、演技もキャメラも最高の出来となりました。
 小薗さんはヒデ君とマリコちゃんを連れて来ていました。マリコちゃんが午後に海へ行きたいと言ったので、そのつもりでいましたが、撮影終了後に空が曇り始めてきました。
 日立に戻り、小薗さん達を加えて昼食を取りましたが、空はますます暗くなってきて、雷も強く光りました。しばらく様子を見ていましたが雨も降りだし、海水浴は諦めました。午後3時過ぎに小薗さんは帰宅し、我々も帰り支度をすることにしました。午後4時には日立を後にし、5日間にわたる日立ロケは終わりました。

 

●次なる準備

 

 日立ロケが終了した後、撮影した全てのショットを確認しました。やはり10日に撮影したS♯8の井戸のシーンは最高の出来です。全てのカットがS♯8のレベルで撮れれば理想的ですが、現実はそうもいきません。他の日に撮った部分も見てみると思った程悪くはなかったので、後は編集でうまく映画に仕上げなければなりません。こんな調子で製作した「ワンカラット」が伽羅の作品の中でも傑作になるとはこのときは知るよしもありませんでした。

 8月19日、S♯7校舎・中のロケハンに出掛け、共働舎という福祉関係の施設を見に行きました。先生と呼ばれている師さんという人に中を案内してもらい、陶芸の部屋や、パンを作る部屋など見て、撮影に使えそうだという感触がありました。印象としては中学校の美術室を思い出させるものがり、大学という雰囲気ではないかもしれませんが、ロケーションとしては申し分ありませんでした。その後施設の外側を見せてもらい、温室に花が栽培されていたり、肥料が山になったりしているのを見て、S♯7は室内シーンにするつもりでしたが、温室にしたら面白いと感じました。室のすぐ隣が道路なので、それが写らないようにしなければならず、自ずとキャメラの場所が決定しました。ここでの撮影の課題は環境音です。設定では山の上の大学ということになっていますが、近くで車の走行音がするのです。音は同録が望ましいのですが、アフレコということも念頭におきつつ、何か良い解決策を考えねばなりません。この撮影は8月27日に決定しました。

 8月20日、加戸谷と共に日立ロケで中止になったうんこ山のロケハンに鎌倉の弁天山公園へ行きました。S♯7で使用する蝉の抜け殻を探しながら景色を見てまわり、加戸谷はここでいいのではないかと提案したが、わたしは納得がいきませんでした。弁天山には案内板があって、撮影には許可が必要と書いてあり、連絡先も記してありました。小木津山とは格段の差です。昼食を取った後、さらに逗子方面へ行きましたが、納得のいくロケーションには巡り会うことができなかったので、この日は諦めました。

 8月21日、念のため弁天山の許可を取るために、鎌倉市役所に電話しました。許可が降りるには1週間ほどかかり、撮影許可料金として8千円かかるというのです。あの公園の景観に8千円は高いと判断し、さらなるロケハンを検討しましたが、それならば小木津山でもう一度撮影すればいいと言う妻の鶴の一声で、小木津山公園へもう一度行くことにしました。日立ロケでの小木津山の映像があまりにも良く撮れているので、それ以上の場所を探すことが馬鹿げていると判断し、小木津山公園のロケを9月3日に決定しました。夏はもう終わりかけているので、この日取りが小木津山ロケの限界です。

​●奈良へ

 8月25日、コガネムシを求めて、わたしと加戸谷、宮崎の3人で奈良へ向かいました。朝5時に出発し、琵琶湖の南に着いたのは12時頃でした。昼食の後、音羽山へ行き、牛尾観音があるところまで登りました。塚本 珪一さんの著書「日本糞虫記」によると、ここにはミドリセンチコガネが生息しているはずなのです。途中、地図には道が記載されていましたが、ダムの工事の為、通行止めになっており、そこで車を停めました。山道を徒歩で登って行きましたが、はっきり言って目的のミドリセンチコガネがどこにいるか皆目検討がつきませんでした。動物の糞に群がっているということは勉強していましたが、そもそも動物の糞がどこにあるのか分からないのです。元気一杯に出発したわりには最初の目的地で不安に駆られ、とりあえず作戦を立て直す為に下山することにしました。

 その下山途中のこと、加戸谷がそれを見付けたのです。回りにティッシュが散乱しているのハイカーの人糞からミドリセンチコガネが顔を出していました。直ぐに割り箸でほじってみると、中から3匹のミドリセンチコガネが現れたのです。虫カゴに土とミドリセンチを入れ、意気揚々と山を下りました。元々今回の計画は大変な作業になるだろうと予測していたので、この時点でのミドリセンチの収穫はとても大きく、幸先良いスタートとなりました。ここでの散策は切り上げて、次はルリセンチコガネが生息している奈良公園へ向かうことにしました。

 午後4時頃に奈良へ到着し、公園内を歩いてみました。鹿が至る所にいて、糞も落ちていましたが、土が堅くて虫が潜り混めるような所ではなさそうです。夕食の後、春日山で灯火採取も試してみましたが、お目当ての虫は採取できず、電灯の下を探してみることにしました。小さな糞虫を幾つか発見しましたが、目的のルリセンチは見つかりませんでした。数時間歩きつつ探し続け、やっとの思いでルリセンチの羽根の一部を見付けることができましたが、0時近くなったので、この日の作業は終わらせ、奈良から南へ車で30分ほど行った天理にある奈良健康ランドで休むことにしました。

 8月26日、7時に起床し、近くの山に行く事にしましたが、出掛ける前にとんでもない事が起こりました。虫カゴを車の中へ居れておいたのですが、火を消してない香取線香も車内に置いたままになっていて、ミドリセンチが1匹死んでしまったのです。

 気落ちしながらも山へ登りましたが、頂上まで来て、この山が針葉樹だと気付きました。この山には虫の気配がなく、諦めて奈良公園へ向かいました。

 公園に着いたとき、加戸谷が車酔いしたので、宮崎とみかわで公園内を散策しました。修学旅行などで奈良公園に来る場合は、公園の入り口辺りで帰ることになりますが、奥の方は立派な樹木が林立して、うんこ山の撮影をここでしたいと思いました。小木津山を超えるロケーションがここにありましたが、ここまでロケに来るのは現実的ではありません。糞を見付ける度にほじってはみましたが、手応えはありませんでした。車へ戻った時は午後2時を回り、横浜帰宅予定時間の1時間前となっていました。

 そもそもこの計画自体が無謀だったのです。たった1日で目当ての昆虫を採取して帰ろうだなんて、どうしてそんなことが本気でできると思ったのでしょうか。当たり前に考えれば、それが無茶なことだとわかったはずです。しかし、奇跡は起こるべくして起こるのです。

 最後の頼みで春日山へ向かいました。トランシーバーで連絡を取りながら、別々の場所を散策しました。もうダメかもしれないな、と思いつつ歩いていると、糞の匂いが漂ってきたのです。興奮して辺りを探し始めましたが、糞が見つかりません。そこで獣道を伝って山を登ってみると、鹿の糞が辺り一面に落ちている場所を見付けたました。それもかなりの量です。ほじってみるとルリセンチの体の一部が発見され、これならルリセンチも大丈夫だという手応えを得ました。時間は帰宅予定の午後3時を過ぎましたが、止める訳にもいかず、散策を続けました。そしてついに藍色に輝くルリセンチコガネを見付けたのです。まるで映画の1シーンのようでした。

 そんなことをしているとトランシーバーに知らない人物の声が聞こえてきました。「あなたは誰ですか?」と。これはマズい。小木津山の二の舞いになることは避けなければなりません。せっかく見付けたルリセンチを取り上げられるかもしれないという不安を感じました。トランシーバーでの連絡が出来なくなり、お互いの場所の確認が不可能になってしまいましたが、悪戦苦闘した揚げ句、前日に発見したのを加えて9匹のコガネムシを捕獲することができました。午後4時過ぎに観光もせず横浜へ出発しました。明日はいよいよルリセンチコガネが出演するシーンの撮影となります。

●キミオの下宿と大学のシーン

 

 8月27日、8時にわたしと加戸谷、宮崎と大川の4人でロケ先の本間さんの家へ向かいました。本間さんは豆腐屋を営んでいて、2階が下宿部屋のようになっています。豆腐作りは朝早いため下宿を用意していたとのことです。その一部屋を借りて、S♯18のキミオの下宿の撮影をすることにしました。

 妻も手伝い、部屋を掃除して、家具や小道具を配置し、キミオの部屋を作り上げました。この作品の中で一番長いシーンの撮影の始まりです。普通の場合、テイクを重ねる度に時間が短縮されていくものですが、加戸谷と橋本の二人は演技のディテールをどんどん深めていって、逆に長くなってしまいました。初めは7分だったテイクが最終的には9分程になりましたが、それでも予想以上に面白く、満足のいくシーンが出来上がりました。午後1時に次の現場である共働舎へ向かう予定ででしたが、1時間遅れで下宿のシーンは終了しました。

 午後2時になると、日の角度が変わってきたので、急いでセッティングして、室内の撮影をしました。順調に撮影は進み、次に野外の撮影です。野外はロケハンの時に気になっていた音の問題があったので、それを解消するために傘を使った遮音材を製作し、道路に背を向けるようにして収録しました。野外での撮影もほぼ順調に進み、午後5時には予定のカットを全て終了しました。
 この日は日差しも良く、演技も安定して、満足のいくカットを作り出す事が出来ました。

●日立ロケその6

 

 9月3日、朝4時に横浜を出発し、8時半頃には日立に着き、朝食を取ってから小木津山公園へ向かいました。今日はうんこ山のシーンを全て取り終わる予定ですが、空模様があまりよくありません。すでに9月に入り、ますます夏を舞台にした撮影は難しくなるので、これ以上予定を繰り下げるのは危険が伴います。そこで、多少台詞の変更も加えて、撮影を続行する事にしました。前回の日立ロケと日差しが違うので、前回のテイクはすべてNGにして、S♯12をもう一度撮影しました。撮影自体は順調に進みましたが、キミオ役の橋本は環境変化に敏感で、なかなかエンジンがかからず、前回と比べても演技が良いとは言えませんでした。それでも加戸谷は一定のパフォーマンスを保っていて、良かったのですが、二人の息があっているという感じではありませんでした。

 昼過ぎに小薗さんが参加してくれて、夕方には撮影は終了しました。不満足な天気と演技ではありましたが、予定は全て消化することができました。後は編集でドラマにしようと思います。帰りに小薗さん家族と共にファミリー・レストランで夕食を取り、帰宅しました。これで橋本はクランク・アップとなります。回想シーンの撮影は終わり、残るはサトルの実家とアパートの場面となります。

●撮影中断

 

 コガネムシの寿命が尽きる前に、S#15で使用する“うんこから出てくるスカラベ”を撮影しなければなりません。ということで自らの排泄物を天日に干して、自宅の裏でキャメラを回しました。時間が経過するに従って、これまた綺麗な色をした蠅が群がってきます。どうしてフンに集まる虫はどれも輝いて綺麗なのだろうと思いつつ、30テイクほど撮影しました。

 9月9日、地元小学校の裏で、サトルがキミオの大学に到着する場面を撮影しました。1カットだけのシーンで、2テイク撮って全行程40分の撮影でした。このシーンで登場する用務員はわたしです。

 9月11日、ラフ編集にかかる事にしました。撮影した全ての素材のアドレスを作って整理しました。準備が整い、さあ始めようとした時に編集用デッキの調子が悪くなりました。故障です。仕方がないのでソニーのサービスへ行ったら営業時間が終わっていました。不景気のせいで時間が短縮されたようです。

 9月13日、今日は早めにソニーのサービスへ出掛けました。修理には2週間かかり、代金は2万円程かかりそうです。とにかく直さなければ先へ進めないので修理を依頼しました。

 デッキの修理が完了した後、「ワンカラット」より前に撮影していた「母さんの貯金」の編集にとりかかりました。夏の季節は完全に終わり秋になっていたため、撮影の続行は不可能だったのです。「母さんの貯金」の編集は、とても細かな作業となり、年を越えて1996年1月に終了しました。

●撮影再開・ラフ編集

 

 1996年5月6日、長らく「ワンカラット」から離れていましたが、製作を再開すべく、ミーティングを行いました。これからの計画を大雑把に決め、ラフ編集を開始しました。

 編集を始めて多くの問題に直面しました。全く面白くないのです。とにかく、当初の計画通り、カットをつなげて行くしかないと思い、作業を進めました。うんこ山のシーンは、撮影では手応えがあまりありませんでしたが、つなげてみると予想以上の効果が現れてきました。ここで映画がやっと面白くなってきました。編集を完了した時点で、ようやく手応えを感じるようになり安心しました。 撮影部分のラフ編集ヴァージョンはトータルで43分にもなっていたので、この内10分程度はカットする必要があると思います。サトルがキミオに出会うまでが長いので本編集では調整する必要がありそうです。

●上映会場選定

 

 5月25日のミーティングで、上映会を横浜にあるSTスポットで12月に行うことにしました。この上映会はプロデューサーである大川を中心に進めていくことになっています。6月1日には12月27日、28日、29日の3日間の予約を取ることができました。

 ところが、その後のミーティングで12月末の上映は集客が難しいのではないかということを考慮にいれ、3月に延期することにしました。

●お葬式シーン撮影

 

 製作開始時から懸念だったお葬式のシーンを、伽羅の初期のメンバーである城平家で撮影することにしました。撮影に合わせて、セットや衣裳、小道具等の作成を妻とその姉である征子さんに依頼しました。完成した道具類は明らかにニセモノなのですが、不思議なことにレンズを通すとそれらしく見えるものです。このシーンには大勢のエキストラが必要なので、両親、友人、知人から数十人のリストを作成して撮影に備えました。

 8月初旬に撮影は行われました。人数が多いので指示書を書類にして渡し、それぞれの役割を伝えました。みんな指示をよく聴いてくれて、撮影は順調に進みました。過去に故伊丹十三の「お葬式」という作品を観たことがあり、悲しいはずのお葬式のシーンが賑やかで嘘っぽく感じたものでした。しかしあの映画は間違ってはいませんでした。わたしの母の葬式でもあの映画のような雰囲気で、悲しんでいる余裕が殆どなかったのです。その感覚を作品の冒頭のシーンに描きたいと考えていたのですが、理想的なショットが数多く撮影できたと思います。

●上映会場決定

 

 8月25日に岩間市民プラザで自主上映会が開かれました。大川はそれを観に行き、上映場所は岩間でもいいのではないかと提案してきました。横浜STスポットはどちらかというと小劇場というところで、映画館の雰囲気はなかったので、検討の結果、同ホールで上映する事に決定しました。

 9月6日、上映企画書を作成し、わたしと大川の二人で岩間市民プラザへ向かいました。担当の森井さんと話をして、後援という形式をとることで検討しました。

 9月8日、ホールの抽選会に参加するため、わたしと大川で岩間へ向かいました。当初3月14日、15日を候補に考えていましたが、当日いきなり28日29日に変更してチャレンジしました。結果は当方の予定通り28日、29日で決まりました。

 9月11日、伽羅のミーティングにおいて、3月28、29日の上映が決定し、企画準備を始めました。伽羅にとっては初めての上映会となります。今までの成果を遂に見せるときがきたのです。

●クランクアップ

 

 9月21日、久しぶりの撮影です。今日はサトルのアパートの前でキミオから届いた小包を発見するシーンです。井上幸次さんの協力で彼の住んでいるアパートの前、夕方から夜にかけて準備をして2カット撮影しました。住宅街で、その上夜の撮影だったため、近所の目を気にしながらの作業となりました。

 10月4日、お葬式のシーンでも協力してくれた大里千草さんにポスターの作成を頼むための打ち合わせをしました。ラフ編集テープと音楽を渡し、自由に発想して自分の作品として恥ずかしくないものを提供してほしいという気持ちで頼みました。注文としてはチラシを単なる情報欄だけにしたくなかったので、一つの絵としても楽しめるものにして欲しいということを伝えました。

 大川宅でS#21のサトルの部屋の中のシーンを撮影しました。今日は役者のクランク・アップでもあります。ラスト・シーンの撮影となるため、キャメラ位置、照明、演出すべてに気を配り、慎重に準備をしました。照明を担当した宮崎もかなり集中して作業を行い、彼の力によって作られた画面は美しいものになりました。ラスト・ショットになるサトルの顔は加戸谷の演技の中では最高傑作で、どのショットも素晴らしい出来となりました。

 これで長く続いた撮影も一段落となりました。アフレコが残ってはいますが、役者は出演する場面はこれで終了となります。撮影で残っているのはインサート用のカットが数カットだけです。そしてもう一つ大きな課題が残っていました。ラストのアフリカの映像です。このシーンをなんとかしないことには「ワンカラット」は完成しないのです。これからポスト・プロダクションに入りますが、それと同時にこの問題を解決しなければなりません。これさえ何とかなれば、作品のイメージは出来上がっているので、後は音楽の製作と編集に時間を費やして、作品に磨きをかけるだけとなります。

     ポスト・プロダクション     

●ワンカラットの音楽

 

 96年の日立ロケの頃に作られた初期のテーマ曲は、97年の夏に新たな曲が誕生したことで、うんこ山のテーマとして使用することになりました。新たな曲は、自分の曲では珍しく、長めのセンテンスで作られています。最近の音楽、特にポップスは1つのセンテンスが非常に短く、1小節や2小節単位で音楽が作られていますが、「ワンカラット」のテーマは、一つのフレーズ24小節単位で、それが特徴になっています。この曲を含めて、本編で使用されている音楽は7曲あり、その全てを作曲しました。

​ 手前味噌ですが、良い音楽ができたと思います。映画における音楽の役割というのは大切ではありますが、「ワンカラット」の曲はその役割を十分に発揮したと思います。

●広告・宣伝

 

 11月初旬、大里さんに依頼していたポスターの原稿が唐突に届きました。何度か作業内容を確認したいとの連絡をしていましたが、突然、完成版を作ってきたのです。内容は画面の中央にドクロを据えたもので、とても好感が持てる作品ではありませんでした。テクニックは評価しましたが、映画の“心”を伝えていないため却下させていただきました。

 作業途中の経過情報を提供しないというのはアーティストとしてはありがちなことですし、自分もできればそうしたいと思いますが、クライアントの意向に沿うことはとても大切なことです。ニーズに応えられなければ、どんなに才能があっても意味にないことなのです。

 さて、ポスター原稿が使用出来なくなってしまったので、大川が自家用PCでフライヤーとチケットを作りました。この作品を象徴している写真であるキミオとサトルが手前に向かって歩いている構図をメインに構成されたもので、裏には作品の解説も加えました。その他の宣伝手段として、ホームページを中心にしたインターネット関連とニフティサーブに定期的に広告を打ちました。またチケットぴあに広告を出したり、横浜で劇団公演がある時は折り込みチラシを入れてもらったりもしました。

●最後のインサート・ショット

 

 1997年1月下旬。最後のインサート・ショットの撮影をしました。キミオの下宿の場面の直前に入る草花に雨が落ちるショットです。撮影は自宅の外で行いましたが、当日は雨ではなかったので、妻が水を用意し、宮崎が撮影をしました。撮影中、自分は部屋で編集作業を続けていました。撮影が済んだテープをその場で確認し、リテイクを繰り返しました。これが最後のショットだと思うと、いくらでも撮影できそうな気分になってしまいます。たぶん時間が無限にあるなら、永遠に撮り直しをしてしまうでしょう。完成したショットは、直ぐに編集されました。

●奇跡のアフリカ映像

 

 この映画の最大の課題はラストのアフリカの映像で、制作当初からどうすればようか頭を悩ませる問題でした。

 方法としては、①アフリカ・ロケ、②国内でロケ、③有料の映像ライブラリを利用などが挙げられましたが、①アフリカ・ロケは、理想的とはいえ、実現するための予算がありません。②国内でロケは、ふざけた案ですが、富士サファリパークや鳥取砂丘等で撮影を行うというアイデアです。これは可能ではありますが、理想的とは言えず、安っぽい映像になってしまうのは想像ができました。しかし、実現可能という点では有力な候補でした。そして、③有料の映像ライブラリですが、この手の映像はとても綺麗に撮影されていて、とてもキミオが8ミリカメラで撮影したようには見えないのです。手ブレも無ければ、超広角や超望遠等のレンズも使われて、とても素人が撮った映像として使うのは難しく、その上高額で、この方法は論外という感じでした。

 このような状況で、とても実現できそうにない状況でしたが、最後の奇跡が起こります。

 制作当初からこの課題が付きまとっていたこともあり、事あるごとに「アフリカ映像、アフリカ映像」と連呼していたのが良かったのかもしれません。エキストラで出演していた井上幸次さんが、「ケニアで撮影したビデオがあるよ」と言い出したのです。井上さんはアフリカ旅行の経験者でした。期待半分で受け取ったその映像は、画質が悪く手ブレも酷く、どこを撮っているのか分からなくなるような、素人丸出しの下手くそな撮影だったのです。実際、ダラダラと長時間に渡り撮影された映像を見続けると軽い目まいが生じるような気分が悪くなるような代物でしたが、これこそが理想の映像でした。私達はこれを求めていたのです。

 これにより映画は完成へと向かいました。

●編集

 

 撮影の途中から編集作業は始めていたので、作品のもつリズムはほぼ出来上がっていました。フィルムで編集していた時は、作業途中でそれ以前のカットを修正することが可能でしたが、ビデオでの編集はつなげたが最後、それが完成となってしまいます。「ワンカラット」では、結果的に全体の編集作業を5回行いました。最初はコンテ通りラフにつなげたもの。2番目に1番目のテイクを素材にして、それを切りつめて無駄を省いたもの。3番目にシーン別に完全だと思われる構成を組み立てたもの。4番目に本番の編集の予行練習。5番目に本番という流れです。

 編集で最後まで悩んだのが、ラスト・ショットです。ここの音楽は撮影開始の時点で決定していて、最後の節はいわゆる終止形で終わらない音楽にしようと考えていました。その理由は二つありました。一つは、物語はここで終わるのではなく、これから始まるという予感を漂わせたかったからで、もう一つは、終止形にするとあまりにも“出来過ぎ”たものになってしまい、それを避けるようにしたかったからです。ラスト・ショットをサトルの顔で終わらせることを考えたのは、その撮影の最中です。サトル役の加戸谷の演技が素晴らしく、“目は口ほどに物を言う”ショットとなりました。編集段階で他の候補を3種類作成しましたが、結局“顔”以上に力強い画像ではなかったので、現在のようになりました。

●完成

 上映が間近に迫りましたが、まだマスター・テープは完成していませんでした。アフレコのセリフや効果音などを編集された画像に合わせて、ダビングする作業が最後に残っています。ここからが最後のクオリティ・コントロールです。数十回となくテイクを重ね、納得がいくまで作業を続け、もうやりようがないということろまできて、最後の音楽をダビングしました。

 これで完成です。出来上がった作品を最初から観てみました。

 94年5月に生まれたアイデアが映像となり、その本来の姿を現しました。面白い映画になったと思います。しなしながら完成したという実感が湧きません。まだ手を加える事が出来るのではないか、という事を考え続けてしまいます。ちなみにその感情は現在まで続いていますが、これもいつもの事です。

​●上映会

 1997年3月28日、遂に伽羅の上映会の日です。作品の関係者の殆どが今日初めて完成版を観ることになります。上映時間は50分で、映画としては短編の部類に入り、また複雑なセットや特殊効果があるわけでもありません。観てしまえば、苦労したショットも数秒で通り過ぎてしまうし、素晴らしい演技がストーリーのテンポにそぐわないという理由でカットされたところもあります。誰かがこの映画を観たいと言った訳でもないし、望まれてもいません。結局、自分たちが観たいからという理由で映画を作るのです。その上出来るだけ多くの人達に共感してもらえるようにと願いながら映画を作るのです。何十人もの人を巻き込み、作り上げたこの映画に何の価値があるのか、その結果を今日知ることができます。

 劇場スタッフの為のリハーサル用試写での感想は、ほとんどが「こういう映画になったのか」というものでした。上映の準備が完了し、ロビーにあるモニターで「ワンカラット」のメイキングビデオを流しました。カウンターには、愛川と妻がチケット切りをして劇場への案内をしています。プロデューサーの大川は全体を仕切りながら行ったり来たりして忙しそうです。宮崎は上映用のプロジェクターの前に座り、最後の調整をしています。わたしは場内で、入場したお客様を座席に案内しました。

 金曜日の夜ということなので、お客様のほとんどが仕事帰りに立ち寄ってくれたというパターンです。場内には「ワンカラット」のサントラが流されて、気分を盛り上げています。客席に着いた人々は渡されたパンフレットを読みながら始まるまでの時間をつぶしています。いったいこの中の何人が映画を気に入ってくれるでしょうか。その結果がこれからわかります。

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